お知らせ / 徒然

2018-12-21 02:15:00

日本がIWC(国際捕鯨委員会)脱退を表明。
今後近い将来、日本沿岸での商業捕鯨を再開できる可能性が出て参りました。


それに伴い、
「日本沿岸の鯨のだけで料理を提供する、
 日本で唯一の鯨料理屋の店主」として、
代表の石川が12/20「報道ステーション」から取材を受けました。


放映に採用されたのがコメントの一部だけでしたので、
誤解を防止する意味で、以下、補足として、
実際のインタビューで回答した本来の全容を記載致します。


ほぼ原文ママですので非常に長大となりますが、
「あの一言はどう意味だったのか?」にご関心頂ける方は是非ご覧ください。




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Q ①:
日本で唯一、日本沿岸の捕鯨の鯨肉だけにこだわる鯨料理店として、
今回のIWC脱退表明に対する率直な感想は?
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A:
基本的には歓迎している。
いつかこの日が来る事を確信があり、こうした時にこそ、
一助を担わせて頂くために「日本の鯨の料理店」を開業した。

 

南氷洋での鯨資源の有効活用は、
地球全体規模のサスティナビリティの実現として重要だが、
それよりも先ずは自国、自分たちの海の恵みに、
しっかりと、より良い形で向き合い、取り組む姿勢を実践し、
その上で、南極海という人類共有の資源の活用を提唱すべき。


その意味では、脱退は決してネガティブな事ではなく、
一旦原点回帰をした上で、将来的、何年後かはわからないが、
説得力ある形での南極海の鯨類資源活用を、
再び提案するための極めて前向きな第一歩だと思う。

 

世界中の方々から、
「自分達の海で、あれほど素晴らしいモデルを確立した日本が提案するのであれば、もう一度提案を聞いてみよう」となって欲しい。

 

一方で、今のこのタイミング、
「IWCで賛成を得られないから」という理由での脱退の場合、
それは「ヴィジョン無きIWC脱退」になりかねない危険性もあると思う。

 

そもそも捕鯨問題の根幹は、
「何故、今この時代にあっても、
 鯨を捕り続けなければならない?」
という疑問に対し、
国内の私たち日本人に対しても、
海外の諸外国に対しても、
明確なヴィジョンとして提示できていないことにある。

 

ここでいうヴィジョンとは2つ。

「鯨類資源が回復している」や、
「鯨はNGで牛や豚はなぜOKか」や、
「捕鯨は日本の伝統文化だ」という、
「反対意見に対する、反対意見」ではない。



一つは、
「捕鯨という営みによってもたらされる恩恵によって、
 その地域は、日本はどのように幸福を享受できるのか?
 どんな風に笑顔になれるのか、
 どんな風にその海は美しくなれるのか、
 しかも持続的、継続的に。」

(鯨はじめ、豊かな自然環境と、
 どのような形で共生していくのがベストなのか。
 結果、どのような文化的価値観が形成され、
 地方の捕鯨基地が、
 どのような地域社会・経済として再構築されるのか。
 かつてしてしまった乱獲を経たからこそ描けるモデルとは。)

といったような社会的意義の視点が一点。




もう一点は、純然たる食の魅力のヴィジョン。
「鯨は食文化」という主張がある割に、
料理手法の洗練や、食材としての魅力の探求といった、
食の根本の部分が疎かにされすぎている。
「美味しい鯨料理で感動してもらう事」が目的ではなく、
「鯨を食べる事」という手段が目的化している。
圧倒的に美味しい鯨料理を探求するのではなく、
どうやったら一般の人々に鯨に興味を持ってもらえるか、
に比重が偏りすぎている。

本来そもそも本当に伝統的な食文化であるならば、
極論だが、ミシェランのようなアワードを取得しているはず。
ミシェランではなくとも、国内で、
例えば食べログのベストレストラン賞を取得していなければならない。
国内外のセレブが、何が何でも超絶的に美味しい鯨を食べたくて行列をなす。そんなヴィジョンが存在しない。



それら大きく分けて2つのビジョンが無いが故に、諸外国からは
「何故、乱獲の反省を活かさず、まだ鯨を捕ろうとするのか?」
「そこまでして鯨を捕るメリットって何?」という反応が返ってくる。


それゆえ、海外の方の視点は、「反対」よりも「何故」がしっくりくる。


4年間鯨料理店をやりながら、
その「何故」を常に自問自答してきたため、当店にはたくさんの海外のお客様にお越し頂いている。
本日もあちらにいらっしゃっているのはドイツ人の方。
「何故?」の部分さえ納得していれば、むしろ日本人よりも積極的に食べてくれる。
皆、日本人以上に「美味しい」「こんなに深いテロワールは体験した事がない」と感動してくれる。



一方国内では、現実として鯨の消費量・流通量が増えていない。
そもそも戦前戦後の大規模な遠洋捕鯨時代に比べ、
絶対的な捕獲量と供給量が少ないのだから当然ではあるが、
それにしても、
 ・正しく処理と料理をすれば本当は、牛と同等以上に美味しい
 ・牛よりも栄養が豊富
 ・牛よりも価格が決して高くない、むしろ安い
 ・畜産よりもサスティナビリティ(持続可能性)が高い
  自然環境に対する負荷が少ない資源管理が可能
といったメリットがあるにもかかわらず、日本人の多くはクジラを選択しない。皆、牛を食べる。


これは即ち「捕鯨は伝統だ」という主張の一方で、
「鯨を捕って食べる事に、必要性と魅力を感じていない」、
つまり「納得していない」事の表れである。


では、それがなぜなのか?と言った時に、
前述のようなヴィジョン、
「鯨を捕って食べるという営みの意義」
「鯨が本当に美味しく、食文化として継承されるべき実績」
が共有されていないからではないだろうかと考えている。



これは、つまり、せっかく鯨を新たに日本沿岸で捕っても、
それを良い形で享受する土壌が整っていない状態である事を示している。


食べたいと思う人がただでさえ多くはない状態で、
食べてみたいと思ってもらえる魅力も、実績も、
あらゆる面で供給側が準備不足。


物珍しさから鯨にまた注目が集まり、
一時的に需要が増える事があるだろうが、
結局それは消費と消耗でしかない。
海外からすれば、マグロの次はクジラか!
日本人は旨いものを食べるためなら手段を選ばないビーストだ!
と言われてしまう。


何よりせっかくこれほどまで、
反対意見の中を何十年も継続してきて、
その本当の恩恵は、
「何故、鯨を捕るべきなのか」というヴィジョンを、
徹底して練り上げ、鍛え上げる期間をもてたコトであるはず。

反対意見があるからこそ、何が欠けているかが見えたはず。
相手の意見から必要な視点を抽出して再構築すれば、
素晴らしい、世界に誇れる「自然とどう共生するか」モデルやヴィジョンの構築ができたはず。

 

今のこのタイミング、それがない状態捕鯨を再開すると、
一時的な商品価値の高さ、珍しさから、
大げさに言えば、再び乱獲を繰り返すことになりかねない。
それほど、今の日本は、食に関して贅沢な飽食の極みにあると思う。
あらゆる「美味しい」や「珍しい、希少」が、
失ってしまった人間らしい精神満足を埋め合わせや、
手軽に外貨を稼ぐかせぐための消耗品になっている。

鯨は、せっかく、こんなにも持続可能な漁業がしやすく、
命を頂くというありがたい営みの象徴そのものにも関わらず、
現代人的飢餓の連鎖に巻き込まれかねない。



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Q ②:
なぜ日本沿岸のクジラだけで料理店を?
それにはどのような意味が??
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A:
端的に言えば、グローバル版の「地産地消」であり、
自遊人の岩佐社長が提唱される「ローカル・ガストロノミー」のような考え方が根底にある。

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まず、そもそも鯨を捕って食べるという、
極めて特殊で歴史の深い営みは、
これからの日本の地域経済や文化活動、教育活動に必要になる、
大きな貢献ができる可能性があるという予感というか確信が、
中学~高校時代からぼんやりとあった。
日本の風土や歴史、文化を、
料理や食を通じて表現するにあたり、
これほどインパクトがあり、様々な側面の情報量に富み、
掘り下げ甲斐のある食材はなかなかない。
その時に、南氷洋で捕獲した鯨でそれができるか?
アイスランドから、低価格を主な理由に輸入された鯨肉でできるか?

 

今この時代にあって鯨を捕って食べるのは、
即ち、同時に鯨という種を守るという営みであることを前提にしている。日本がまず守るべきは、知るべき日本の海の鯨である。

 

食べるという事は、まずその生物を深く知る事。
だから、日本の海の鯨にマッチした、
昔ながらの料理方法や加工方法、味わいが再発見され、
改善を加えながら実践、技術と知識が継承されていく。
その為には、時には文化の歴史の紐をとき、
様々なバックグラウンドを研究しなければならないかもしれない。
そしてまた新たな再発見があり、再構築へとつながる。
実際にそうして、過去、鯨を食べる文化は進歩的に継承されてきた。

 

例えば房総の捕鯨でいえば、最もポピュラーなのは、
タレと呼ばれる天日干しのジャーキー。
夏場が漁期の鯨なので、とっても生では日持ちがしない。
いっそ極限まで海中で鯨を熟成させて柔らかくし、
解体したらすぐに塩漬けにして天日乾燥させる。
保存も利くし、重量も軽くなるので、自動車のない時代でも、
容易に南房総の各地に運ぶことができる。
何より、栄養価を損なうことなく、むしろ爆発的にうまみが増す。
だからこそ、房総に鯨を食べる文化が広がった。

 

このように、食文化と地域性は切っても切り離せない。
本気で鯨の食文化を守りたいのであれば、
日本という「国際社会における地域」の鯨で、
もう一度そうしたことをしなければならないから、
日本のクジラだけで料理をする店が必要。

 

話を戻して、
食文化は、食べる対象となる生物が増えなければ、
最低でも個体数が維持されなければ成立しない。


その為には、まずは食文化を、
残さなければという義務感ではなく、
残していきたいという強い愛着が必要。
食文化への愛着とは、
如何にたくさんの「おいしい」を積み重ねられたか。
一定以上の美味しいの積み重ねが飽和したときに、
愛する食文化だけではなく、その対象生物への愛着へと昇華する。
そして「残したい、だから残す努力をしよう」となり、
結果として鯨であれ、他の生き物であれ残る。



地方の里山の天然の山菜が豊かなのは、
その地方の方々が「大切に残そうとした」から。
地域が一体となって、その食を中心に機能を再構築していく。
昔のように食を核にしたライフスタイルと、タウンスタイル。
その方が実は豊かだったのではないだろうか。
前出の岩佐社長のお言葉を借りるのであれば、
食をスタイルの中心に据えるという事は、
自然の摂理を尊び重んじて生きる事である。
おごりたかぶらず、つつましく、
どんなに都市文明が発展しても、
それでもあくまで大きな自然の中で人間が生きている、
という大原則を忘れない事。
そんな社会、日本を次の世代に引き継ぎたい。



何度も言うように、
それは、本来自分が行くことができない海から、
発展した技術や流通で強引に引っ張ってきた鯨ではできない。
それは、日本という地域の個性ではないから。

日本の食文化を支えるのは、
日本の風土という個性と、
気の遠くなる程の年月の間向き合った結果の積み重ねであり、
日本の鯨の文化を支えるのは、
日本の海にいる鯨の個性と、
気の遠くなる程の年月の間向き合った結果の積み重ねだから。



誤解をしてほしくないが、南氷洋のクジラも、アイスランドの輸入鯨肉も、寧ろ、様々な面であった方がいい。

しかし、先ずは自分たちの地域の海の恵みを最大限活かすスタイルを構築し、その基盤に副次的にのせるものではないだろうか。